広島地方裁判所 昭和42年(わ)673号 判決 1968年5月31日
主文
被告人を罰金一〇万円に処する。
右罰金を完納することができないときは金一、〇〇〇円を一日に換算した期間被告人を労役場に留置する。
訴訟費用のうち鑑定人小林宏志にに支給した分の二分の一は被告人の負担とする。
本件公訴事実のうち業務上過失致死の点は無罪。
理由
(罪となるべき事実)
被告人は、
第一、昭和四二年八月二〇日午前四時三〇分頃、広一い七八五五大型貨物自動車を運転し、広島県佐伯県廿日市町宮内串戸一の三二番地先国道二号線を西進中、進路上に瀕死の重傷を負い横臥している山村セキ(当八七年)の胸部腹部を、自車左後輪(ダブルタイヤ)にて轢過して、同女に第一一、第一二胸椎完全骨折による背髄断裂等の傷害を与えて即死せしめたのに、同女の負傷状況に応じ救護または死体の収容をする等の措置を行わないままこれを放置して右事故現場を立去つた
第二、右事故現場に警察官がいなかつたのであるから、直ちにもよりの警察署の警察官に、右交通事故発生の日時場所その他法令に定める事項を報告すべきであるのにその報告をしなかつた
ものである。
(証拠の標目)<省略>
(法令の適用)
被告人の判示各所為のうち、第一の所為は道路交通法七二条一項前段、一一七条に、第二の所為は同法七二条一項後段、一一九条一項一〇号に各該当するので、所定刑中いずれも罰金刑を選択し、以上は刑法四五条前段の併合罪であるから同法四八条二項により各罪所定の罰金の合算額の範囲内で被告人を罰金一〇万円に処し、同法一八条により右罰金を完納することができないときは金一、〇〇〇円を一日に換算した期間被告人を労役場に留置することとし、訴訟費用のうち鑑定人小林宏志に支給したものの二分の一は刑事訴訟法一八一条一項本文により被告人に負担させることとする。
本件公訴事実のうち業務上過失致死の点については犯罪の証明がないので同法三三六条により主文において無罪の云渡しをする。
(無罪理由ならびに判示各事実についての弁護人の主張に対する判断)
一、業務上過失致死の公訴事実は次のとおりである。
被告人は、自動車運転者であるが、昭和四二年八月二〇日午前四時三〇分頃広一い七八五五大型貨物自動車を運転し、佐伯郡廿日市町串戸一の三二番地先国道二号線(幅員約一一メートル)の中央沿いを時速約四〇キロメートルにて西進中先行の幌付大型貨物自動車に追従するに当り、同車の動静を常に注視し、同車が進路上に障碍物を発見し急に進路を転じた場合にもこれに即応して安全な運転を行いうるように車間距離を保つべき業務上の注意義務があるのに、これを怠り僅か約一〇メートルの車間距離を保つただけで漫然進行を続けた過失により、同車が進路に横臥している山村セキ(当八八年)を回避するため急に進路を右に転じたのを認めたが、これに即応することができず、約七メートルに近接して初めて同女を発見し右に把手を切りこれを避譲しようとしたが及ばず自車左後輪(ダブルタイヤ)にて同女の胸部腹部を轢越し同女に第一一および第一二胸椎の安全骨折による背髄断裂等を与え同時刻同所において同女を右傷害に基き死亡するに至らしめたものである。
二、<証拠>を綜合勘察すると、
(一) 事故現場である広島県佐伯郡廿日市町宮内串戸一の三二番地ロンドン屋前の国道二号線(幅員約一一メートル)(同国道が幹線道路で昼夜を問わず車の往来の多いのは顕著な事実である)の交差点の西北角から北へ二軒目の家に住む山村セキ(当八七年)は、昭和四二年八月二〇日午前四時三〇分頃、夜明け前でいまだ暗い中を、乳母車を押して右交差点近くの国道二号線を北より南へ横断して海岸へごみを捨てに行き再び自宅へ戻るべく事故現場附近の国道二号線を南から北へ横断し、東行車線中央附近にさしかかつた時、同所を東進する自動車(各実況見分調書添付現場見取図中の東行車線に存在すの二本のスリップ痕が同車のものと判断される)に、身体の左側面を激突はね飛ばされ、左側腹部腹壁組識間挫滅、左下腹部から恥丘部を通り右大腿部から右膝窩部におよび挫裂創、頭蓋底骨折等の瀕死の重傷を負い前記交差点中央附近のセンターライン上に仰向けに転倒していた(転倒地点は前記現場見取図中の血液貯溜地点と判断される)。
(二) そのの直後先行の大型幌付貨物自動車の後を一〇ないし一五メートルに追従し、時速四〇キロメートル余で現場附近の西行車線センターライン寄りを西進していた被告人運転の大型貨物自動車の左後輪ダブルタイヤが、前記のように瀕死の状態で転倒していた山村セキの下腹部および前胸部を、左やや上方より右やや下方に向つて轢過し(したがつて轢過直前の同女の身体の位置は、傷の方向と車の進路から、ほぼ頭が東北東、足が西南西に向いていたと判断される)、第一一、第一二胸椎完全骨折による背髄断裂、腹部大動脈壁断裂等の致命傷を与え、同女を出血により即死せしめた。
(三) (轢過前後の状況)被告人は、前記のごとく先行車に追従して進行中、事故現場附近にさしかかつた時、先行車が急に進路を右に転じ、センターラインを右に越えたので、進路に何かあるのではないかと考え、自分もハンドルを右に一回転位切り先行車と同様のコースで反対車線のセンターライン寄りへ入つたが、その際の、先行車が進路変更を終えセンターラインに平行となり、被告人の車がセンターラインを右に越え左にハンドルを戻そうとして、いまだラインと斜に交差している状態の時に、一〇メートル余程先(この距離に関する供述は、追従車間距離に関するそれと同様きわめて不正確かつ誤差の大きなものと思われるが、八月二〇日付実況見分調書および被告人の同日付司法警察員に対する供述調書などより一応かく認定される)。のセンターライン上に黒い1.5メートル位の長さのものを前照灯の光の中に発見したものの、とつさのことであるためと夜明け前の暗さのため、前照灯や街灯の明りにもかかわらずそれを人であることを確認しえぬまま、心持ちこれを避けようと更にハンドルを右に切つたか切らぬ程度でその右側を通り抜けようとしたが、前輪はそれを避けたものの左後輪のダブルタイヤにてそれを轢過してしまつた。そこで、被告人は、同車を停車させて現場に引返したところ、センターライン上に頭を北に足を南に向けて仰向けに転倒している山村セキを発見し、今轢いた黒いものは人であつたと気付いたのであるが、現場に居合わせた附近の住人池本義春らから、轢き逃げじや家が砕けるような大きな音がした、等という話を聞き、自分は急ブレーキを使用していないし衝突もしていないから、自分以外の誰かが被害者を轢き逃げしたのを、自分が更に轢いたのだと考え、自分には責任がないと思い現場を立去つた。
以上の事実が認められる。
三、そこで被告人の過失の有無につき考える。
(一) 訴因には、先行「車が進路上に障碍物を発見し急に進路を転じた場合にもこれに即応して安全運転を行いうるように車間距離を保つべき業務上の注意義務」なるものが必要と説かれているが、これが本件の場合数字にして一体どの程度かについては明示されてはいず、また、かような車間距離なるものが先行車、後行車の各速度、道路の状況、明るさ、障碍物の性質(動いているか止つているか)、大小、位置その他の状況、先行車の障碍物に対する態度(これが何も進路変更にかぎられるものではなく、停車、徐行、轢過、衝突等も考えられる。この点より進路変更のみを前提とする訴因は不適当である)、進路変更したとしてその変更の方法、後行車の性能等々の諸々の条件により一定しないことを考えると、これが一般的に明白であることを前提とする訴因の記載には問題がある。そしてまた「安全な運転」が何であるかということも同様問題がある。それが障碍物との衝突回避のようなことを意味するものと考えなければ本件では無意味であろうかと思われるが、そうすると、この言葉が適切でないのは云う迄もないし、更に次に述べるごとき疑問を有するものである。
(二) ところで、先行車が急停車しても追突しないだけの車間距離(これは一般化した概念であり、運転者の反射機能により若干の差はあるが、その数字的なものもほぼ明らかである)を保つべき注意義務が、一般的に要求されていることは云う迄もないところであるが、これに反し、本件において検察官が主張するのは、先行車の前方進路上に障碍物が存在するかもしれないことを予期して、あらかじめ、後行車の運転者は、先行車がこれとの接触、衝突等を避けるため進路変更その他いかなる措置を採つても、先行車および障碍物の双方との接触等を回避できるような車間距離を保つべき注意義務がある、ということのようであるが、はたしてかかる注意義務が本件の場合一般的に存在しているかは疑問であると云わなければならない。何故ならば、まず第一に、先行車の前方にそうしたものが存在し、かつ後行車が通過するときにも存在するということが稀な事例であること。第二に、時間的、場所的にも本件のような条件下で進路上に障碍物が存在しているということが稀であること。第三に、それを車が一方的に避譲しなければならないような障碍物として考えられるのは、本件のごとく倒れている人間とか、それと衝突すれば自己または同乗車を死傷に致すかもしれない程度の物体などであるが、かかるものが本件のごとき条件下において道路上に存在するということは更に全く異常な事態である、からである。したがつて、当裁判所としては、本件のごとき時間に、この国道二号線中央路上に人が倒れているような異常なことを予め予測して、特にそれに備えた車間距離を保持すべき注意義務なるものは原則的には存在しないと考えるものである。勿論こうした障碍物の存在を予め認識していた場合や認識することが可能な特別の事情のある場合には別論であることは云う迄もない。そして、本件では、前認定のごとく、かか障碍物の存在を認識してもいないし、認識しうべき特別の事情を認められないのである。
(三) つぎに、仮りに障碍物の存在についての予見可能性を肯定し、検察官主張の注意義務があると仮定して、その義務をつくしたとしても、はたして本件において一〇メートル余先の進路上の黒いものを人であることを被告人が認識しえたか否かも問題である。これが否定されるならば、進路上の黒いものを被告人が避けることを期待することはできず、避ける義務はないことにならざるをえない。
この点につき、被告人は、捜査官に対しても公判廷においても、終始、目の前に現われた黒いものを人間と気付かないまま通り過ぎたと述べている。
そして、現場を自動車を運転して被告人の後から進行した運転手達も、たとえば福地渥己(同人の司法警察員に対する供述調書)は、先行の被告人車が何かを轢いたのを見た後徐行しながら被害者に近付きその南側を通過する時それを人と確認した旨を、上田栗功(同人の司法警察員に対する供述調書)は、現場に五、六〇メートルに近付いた時大型貨物自動車が二台停つているので何か事故があつたと思い速度を落し約四〇メートルに近付いたとき道路中央に黒いものを認め、速度を一〇キロメートル位にしてその黒いものの左側(南側)を通るとき運転台からそれを人と確認した旨を、証人岡田有弘(当公判廷の供述)は、先行車が左によるので徐行状態で自分も左により死体の一〇メートル位前でそれを発見したこと、それが一見して死体と分るのは傍まで行つてからである旨を、それぞれ述べている。このように、進行中の自動車を被告人車より遅い速度で運転していた者達でも、いずれも死体の直近にまで行かなければそれが人であることを確認しえなかつたことを述べている。事故の音を聞いて飛び出した附近の住人増井重忠(同人の司法警察員に対する供述調書)すら、車速より遅い速度でありながら一〇メートル位に近付いてから人が倒れているのが見えたと述べているのである。したがつて、被告人が、検察官が主張するような車間距離を保持したとしても、はたして前記二(三)で認定した一〇メートル余より遠い地点より進路上の障碍物を人と確認しえたかについては、勿論、それ以上に接近した状態においてすらそれを人と確認しえたかについてもこれを肯定することはできないのである。このことは、時間的、場所的にも進路上に人間が倒れていることが異常であり、先行車の陰から突然現われた障碍物を人間かもしれないと予想して注視することも過大な期待であること、また時速四〇キロメートルなら秒速約一一メートルであるから一〇メートルではなく二〇メートル手前で障碍物を発見したとしてもいずれにせよ瞬間的に予見外のことを判断せねばならないこと、時間的に夜明け前でありまだ暗いことなど合わせ考えるならば、一層明らかである。以上要する走行中の自動車運転者が、本件の場合において、一〇メートル位に被害者に接近してもこれを入と判断することは困難であつたと云わざるをえず、したがつて人であることを前提にこれを回避することを期待することはできないものと云わざるをえない。さすれば、これらをいずれも肯定することを前提とする検察官主張の車間距離の保持も意味をなさないものと云わざるをえない。
(四) 以上を要約すれば
① 訴因の「安全な運転」や「車間距離」なるものの意味内容が不明確である
② 先行車の進路上に人間の倒れていることを予期して運転すべきことを期待すべき特段の事情の認められない本件では、そうしたことは期待しえない
③ かりに検察官主張の車間距離なるものを保持したとしても、進路上の障碍物との接触回避可能地点からそれを人間と判断すべきことは、本件では困難であり期待しえない
と云うべきであるから、結局被告人の過失については証明がないことに帰する。
四、つぎに、判示各事実につき、弁護人において、他の車が惹起した轢き逃げだと考えて被告人が事故現場を立去つたのであるから無罪である旨主張するので判断するに、前記二で確定したように、被告人は、事後的にではあるが、自己運転の自動車が被害者山村セキを轢過したことを確認しているのであるから、死体を轢過したと信ずべき格別の事情のないかぎりは、自己が同女を死傷に致したとの認識を得た筈である。そして、前認定のごとく、被告人は、轢き逃げだとの話を聞き、自分以外の誰かが轢き逃げしたのを自分が更に轢いたのだと考えたもののであるところ、経験則上、轢き逃げされた人間がすべて死体ではないこと(現に本件被害者も被告人に轢過されるまでは生きていたのである)、それが死体であるのは即死の場合や交通事故後瀕死の重傷を負い多数時間救護されず放置されていた場合とかの例外的場合のみであることからして、轢き逃げだと聞いた被告人が直ちに被害者が死体であつたと確信したとは考えられず、或いは死体、したがつて或いは生きている人を轢いたかもしれないと考えた筈である。被告人の供述からも、轢き逃げと聞き直ちに死体と確認したことは認められない。よつてこの点において判示第一事実に対する弁護人の主張は採り得ない(尚、被告人が生きている被害者を死体であると誤信していたのであれば、死体の損傷は物の損壊と云わなければならないから、成立するのは道路交通法一一七条違反罪ではあるが、刑法三八条二項により、道路交通法一一七条の二、三号違反罪の限度で処罰されることとなるのであつて、無罪となるのではない)。
また判示第二事実についても。報告義務違反が人の死傷、物の損壊にかかわらず成立することよりすれば、被告人が自己の轢過を認識している以上、右義務違反は明らかであり、この点に関する弁護人の主張も採り得ない。
よつて主文の判決をする。(笹本忠男)